ビスカニアの歴史

 

 

注意:if世界史であり、現実とは異なる場合があります

 

 

建国前史

 

現在のビスカニアにはかつて、ペルテュイ王国とラ・コンチャ公国の2か国が存在した。前者はフランス語を話し、後者はスペイン語を話した。

両者は長きにわたり戦争状態にあり、多数の命が失われていた。そして人々の疲弊は限界に達していた。 

 

 

ビスカニア統一

 

両国の争いはラ・コンチャ公国の降伏文書調印とガスコーニャ無血開城によるペルテュイの勝利で幕を閉じた。

統一にあたり国名をペルテュイから「ビスカニア」とし、公用語はフランス語でもスペイン語でもなく英語とした。またラ・コンチャ公国の王家は処刑を免れ、南部の諸侯として引き続き存続が認められた。

 

ペルテュイ王家が弾圧ではなく融和を選んだことが功を奏し、現在でもフランス語圏とスペイン語圏の地域間対立はあまり起きていない。

なお国名をペルテュイからビスカニアに変更した日は「建国記念日」として祝日となっている。 

 

 

近代化の歩み

 

やがて選挙による議会が誕生、ビスカニアにおける民主主義の第一歩となった。

その後は鉄道が開通するなど、工業化も進むこととなる。そしてイギリス・フランスなどに次ぐ地位を確立した。

 

そして激動の20世紀に突入する。

19141918年には第一次世界大戦があったが、ビスカニアは参戦しなかった。

1929年には世界恐慌が発生、不況はビスカニアにも及ぶ。対策として各地で地下鉄建設などの公共事業が行われた。

 

また20世紀に入り、サッカーが国技としての地位を確立する。

プロチームによるリーグ戦が開催されるようになり、1部リーグ(最上位カテゴリ)であるファーストリーグは国民的娯楽となった。またFIFAワールドカップ(W杯)にも1930年の第1回大会から参加している。 

 

 

第二次世界大戦(WW2

 

1939年にWW2が開戦、欧州はファシズム陣営の枢軸国と自由主義陣営の連合国に分かれた。ビスカニアは連合国として参戦することとなる。

 

ところが連合国だった隣国フランスは瞬く間に陥落、ヒトラーの傀儡であるヴィシー政権が成立する。またスペインはナチスに協力的なフランコ政権下にあった。

そしてフランスを占領下に置いたことでドイツ軍はイギリス・ビスカニアへの空爆をはじめとする各種攻撃が容易となった。当然その矛先はビスカニアへと向けられる。

フランス・スペイン両国との地上戦を強いられ、さらに首都ガスコーニャをはじめ多くの都市が空爆された。

 

しかしビスカニアも奮戦。またフランスも(分裂する形ではあるが)シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスがヴィシー政権に反旗を翻し連合国側についた。

山々に囲まれた天然の要塞であったこともビスカニアには幸いした。

 

最終的にビスカニア(と自由フランス)ら連合国はWW2に勝利した。5月8日はヨーロッパ戦勝記念日として祝日になっている。

ちなみに現在のフランスはヴィシー政権ではなく自由フランスの流れを汲む国家であるとされる。 

 

 

戦後復興

 

ビスカニアは辛うじて戦争に勝利したものの、被った被害は甚大だった。

それでも首都ガスコーニャをはじめ多くの都市で戦災復興計画が進み、再び前進を始める。

また1950年にスイスで行われた戦後2回目(※)のサッカーW杯では代表チームが世界王者となり国民を元気づけた。716日はその後、「優勝記念日」として祝日となっている。

※戦後初のWはブラジルで当初の予定より1年延期して1947年開催。但し史実では1950W杯が戦後初である。

 

 

現代のビスカニア

 

戦後のヨーロッパは戦争の時代から協調の時代へと移行していく。

ドイツ・フランス・イタリア・ビスカニアとベネルクス3国はEU(欧州連合)の原型を発足させた。EUはその後も拡大を続けている。

鉄道ではTEETrans Europ Express。欧州国際特急)が運行を開始、出入国管理や税関検査などの手続きは車内で走行中に可能となり国境駅での長時間停車が不要となった。ビスカニア国鉄もガスコーニャとフランスのパリを結ぶ列車を運行した。

 

やがてモータリゼーションが進展する。

1950年代からは有料の高速道路が次々と開通した。経済成長もあり、自家用車が普及していく。

鉄道も黙っていない。1988年にはガスコーニャからパリに直通するTGVが運転を開始、ビスカニアも高速鉄道の時代に突入した。

 

近年は大規模イベントも複数開かれている。

1980年にはガスコーニャで万博が開催された。

近年にはサッカーW杯のビスカニア開催が実現、代表チームは3位に入る健闘を見せた。